宝木地区の変遷と展望

1 宝木地区の変遷

宇都宮市西部に位置する宝木の地は、

 

○寛文10年(1607年)度々の水害にあった渡良瀬川流域の古河、館林、藤岡等の農 民がこの地に入植、西原十か新田として開拓を始めたのです。安政6年(1859年)宝木 用水の開通により農耕地帯として発展を遂げました。

明治8年に西原十か新田が合併し「宝木村」と改称、明治22年の市町村令により近隣 5か村(新里、岩原、宝木、戸祭、野沢)が合併し国本村となりました。

 

○明治40年陸軍第14師団が着営し、司令部が設置され(現在の国立病院機構栃木医療 センター)、これに伴い各種部隊が次々と着営、更に陸軍射撃場(跡地が西の宮町に現存する) ができる等、まさに軍隊の村化されたのです。 昭和4年結核療養所(現とちぎ健康の森)が開設されるなど公的施設も設置されました。

 

○昭和20年(1945年) 終戦を機に、かつての軍用地は農地や学校・病院などに移管され、 農耕地や林のある緑の台地に戻りました。

昭和40年初期の東北道計画に伴い、その内側即ち東側は第1種住宅地域に指定された ことで農地の宅地転用が容易となり、住宅地開発がすすみ、今なおこれが続いています。

 

○昭和40年代後半には、宝木町2丁目に1,000世帯

からなる市営・県営の集合住宅が建ち、宝木住宅 団地が誕生しました。

 

○ 宝木地区自治会連合会の変遷

宝木地区自治会連合会の名は、昭和31年細谷小学 校区の11自治会により誕生しました。

田植え直前の水田と団地風景 昭和49年宝木小学校の創立を機に、通学区となった宝木町1丁目、宝木町2丁目、駒生町の一部、駒生1丁目、駒生2丁目、一の沢2丁目、 細谷町の一部の地域 8自治会からなる連合会にその名を継承し、細谷小学校区の自治会は、 新たに「細谷自治会連合会」を設立しました。その後駒生団地自治会、宝木細谷自治会、 宝木町2の3自治会が誕生し、現在11自治会となり、地域組織の中心となって活動して います。

 

○道路交通面では、昭和47年東北自動車道が宇都宮IC まで、翌48年には矢板ICまで開通しました。

平成8年には、宇都宮市街地の渋滞緩和策の一つとして宇都宮環状道路(愛称:宮環)が全線開通しました。

 

○ 昭和56年宝木中学校、同60年西が岡小学校創立、平成9年には旧療養所跡地に「とちぎ健康の森」が開設されました。これらと並行するように近接地域を含め大型商業施設(大 型スーパー)、医療施設、そして保育所・幼稚園等子育て施設、老人ホームや介護施設など の福祉施設もほぼ充たされ、日常生活に必要な環境が整えられたのです。

 

○ 近くに山や大きな河川もなく、豪雨によるがけ崩れや大きな水害等による被害のおそれ がなく住環境のよい地域であります。

 

 

2 宝木地区の展望

 

 宝木地域は、自然に恵まれ、そして買い物施設、医療施設及び福祉施設が近くにそろって おり住環境の良い地域です。

とは言え超高齢化、少子化は確実に進んでおり、更に自治会加入率の低い賃貸集合住宅の 増加などにより生活様式が多様化し、地域・家庭・職場という生活領域における支え合いの

てきており、老々世帯、独居世帯のみならず、地域から孤立するなど日常生活 に必要な福祉などの社会的資源につながることの出来ない人々は少なくありません。

これらのことを要因とした事柄が地域の課題として挙げられ、これを解決するため話し合い討議を重ねこのビジョンの目指すべきテーマ、6つの行動計画を決めました。

これは決して無理難題なものではなく、これまで培ってきた経験を生かし、このビジョン に基づき地域組織団体・住民や地域の多様な主体が参画し、人と人、人と地域資源が世代や 分野を超えてつながることで、住民一人ひとりの暮らしと生きがい、地域をともに創っていく社会を目指すという「地域共生社会」を実現することが可能であり、住んでよかった地域づくりができると考えています。