宝木の現況

1 宝木のデータ

 (1) 地形等

 宝木地域は、宇都宮市の西部に位置し、ほぼ南北に細長路い地形で西部端を東北道、中央には、南北に宇都宮環状 道が通じ、ほぼ中央に地域のシンボル的な「とちぎ健康の 奈」があります。

地形は、おおよそ南北3.4km、中央部の宝木地域コミュ ニティセンターの地で東西1.6km、広さ3.726mに及ぶもほぼ平坦な台地です。

 

(2) 新川と調整池

 新川(旧名:宝木用水)は、徳次郎町の田川 から取水し、宝木、桜、鶴田等宇都宮市街西部 を流れ、下野市下古山で姿川に合流する準用河 川(市が管理する河川)を言います。

上流地域の宅地開発等とも重なり豪雨時には、 地域内での越水がありました。 平成22年宝木中学校西北の地に12,800m

左上 調整池 の調整池が造成されたことにより、その危険性 も薄れてきましたが、令和元年10月の台風19 号による豪雨時(夜間)には地区内で数か所の道路や宅地へ冠水(越水)が生じましたので、 抜本的な改修が望まれます。

 

(3) 町名と由来

 ◎一の沢2丁目:一ノ沢町、駒生町の各一部が、平成8年の住居表示実施により成立しました。

 ◎駒生町:・姿川左岸に位置し、地名は当地で宇都宮氏が駒(馬)を飼育していたことに由来すると伝えられています。 ・明治22年の町村令により城山村の大字名となりました。 ・昭和29年宇都宮市に合併し、その名が町名として残る。一部が西の宮町 となりました。

 ◎駒生町1丁目・2丁目:・平成8年の住居表示実施により成立しました。

 

 ◎宝木町1丁目:・2丁目昭和27年、国本村大字宝木及び戸祭から分離し,町名が成立しました。

・昭和40年に一部が戸祭4丁目・中戸祭町・東宝木町となりました。

 ◎細谷町:・由来は、寛文10年(1670年)館林付近の集落「細谷」から入植した 人々が入植地集落に、その出身集落の名をつけたのです。 明治8年まで西原十か新田が宝木村となり、その字名として残りました。 ・昭和27年の宇都宮市との合併により現在の町名となりました。

 

(4)道路交通と商業施設 

 

ア 道路

 東北自動車道、高速側道、県道鹿沼街道、県道大谷 街道、新里街道(県道大沢線)、宇都宮環状道路、山崎 街道等が地区内を縦横に有り、道路交通は比較的良い 環境です。一方、地域内の住宅地に入ると生活道路は ほとんどが狭隘で、生活用車両の擦れ違いもままなら ず、拡幅を望む声もあります。

また、大谷スマートインターの計画がありますが、 早期実現を望む声が多くあります。

大谷街道

 

イ 路線バス

 宇都宮駅を発着、宝木団地・細谷車庫・駒生営業所を起終点とする市内バスのほか鹿沼線、 大谷線、ろまんちっく村線など、多くのバス路線があり、比較的交通の便の良い地域です。

 

ウ 商業施設

 前記の幹線道路添いに、生活圏の隣接地域を含めると大型商業施設が数か所あり、小売 店を含めると日常生活には便利な地域となっています。

 

(5)人口・世帯数

※出典:宇都宮市政策審議室

 

 

 

面積:市政研究センターGISシステム(平成29年現在)により算出 人口・世帯数:住民基本台帳データ(平成30年10月1日現在) 核家族化率:(平成27年国勢調査)。 増加数・増減率は平成28年住民基本台帳データとの比較

 

 

(6) 教育施設 

 

ア 小中学校

 陽西中学校:昭和24年創立生徒数 623人、 最高時 昭和30年 1,776人

 宝木小学校:昭和49年創立生徒数 645人、 最高時 昭和58年 1,684人

 宝木中学校:昭和56年創立生徒数 402人、 最高時 昭和62年 872人

 西が岡小学校:昭和60年創立生徒数 342人、 最高時 昭和61年 655人

 

イ 幼稚園・認定こども園

 柿の木幼稚園 所在地宝木町2丁目593

 認定こども園・駒生幼稚園 所在地 駒生町3360-36

 

ウ その他の学校

 宇都宮大学教育学部附属特別支援学校 所在地 宝木町1丁目2592 

 栃木県立わかくさ特別支援学校 所在地 とちぎ健康の森

 

(7)公園・緑地(1,000m以上の公園)

 宝木団地児童公園 (2,627m2)  所在地 駒生町2,656-3(宝木団地) 

 六軒児童公園(1,521m)     所在地宝木町1-4 2-15 (1の2) 

 中丸公園(12,314m)      所在地 駒生町1,302-1 (西中丸)

 

(8) 福祉施設等

ア 医療機関(住民が利用している近接の施設を含む)

 とちぎリハビリテーションセンター とちぎ健康の森

 公益財団法人栃木県保健衛生事業団 「とちぎ健康の森

 その他多くの診療科目に対応できる診療所、医院が多くあります。

 

イ 社会福祉施設

 老人福祉施設、保育施設等多数ある。

 

 

 

2 宝木の歴史と文化

 

 宝木地域は、歴史調査書には古墳の遺跡があったことの記載がありますが、現存している ものはありません。人々が継続して住むようになったのは、江戸時代初期の開拓時代からで、 比較的新しい地域でありますが、地域の人々の記憶に残り、語り継ぐことの出来る宝があります。

 

○ 宝木の地名

 太古の昔この地域は、日光街道の西方にあることから西原台地と呼ばれた平原でした。 寛文10年(1670年)上州渡良瀬川の水害地帯にある古河、館林、藤岡等の農民が度 重なる同河川の氾濫から逃れてこの地に入植、西原十か新田(高谷林、藤岡、仁良塚、野澤、西岡、 細谷、山崎、江黒、六軒、中丸の集落)と名うって開拓を始めました。

明治8年(1875)、西原十か新田が合併し宝木村が誕生しました。村名の宝木は、次の「宝 の木」に由来すると言われ、その後の町村合併においてもその名が残されたのです。

 

○ 宝の木

 西原十か新田の一つ「六軒」という集落(現宝木1丁目)に大きな塚(約100m)があり、そこに生えていた珍しい老木(ヒ ノキ科の「児の手柏」=常緑針葉樹)を集落の人々は「宝の木」 と呼称して親しみ、大切に管理していました。このことが後に宝 木村の村名となったと伝えられています。

 明治40年(1907)、陸軍第14師団が着営し、司令部が 設置(現国立病院機構とちぎ医療センター内)されたのを記念し、 宝木村民が、この「宝の木」を祝いとして贈り、司令部前庭に移植されたのです。

 同医療センターの正門を入るとすぐ右側の地に、その樹木の姿 が見られ(右写真)、「宝の木」の案内札を立て大切に管理されて います。

  

 

○ 宝木用水と溜池

 当地は、地質から水利が悪く、「農民は水なくば立たず」の通り、この地に水を引くことが農民の悲願であったのです。

文政6年(1823年)に宇都宮藩によって農業用水路として 開削が始められ、安政6年(1859年)に完成したのです。

 水路は、徳次郎の田川から取水し、上記西原十か新田の田畑を 潤し、中丸新田の溜池:現中丸公園(表紙写真)にまでひきこま れ、これ以南の農地をも潤したのです。

 

○とちぎ健康の森

 ●とちぎ健康の森に至るまで 昭和4年収容者10名程度の市立療養所開設 昭和22年国立宇都宮療養所病院に改称(病床 300床)

  平成5年国立療養所東宇都宮病院へ統合により廃止、跡地は県に移譲される。

 

 ●とちぎ健康の森オープン 平成9年に設立された県立とちぎ健康の森は、とちぎ健康の森とちぎ健康づくりセンター、とちぎ生きがいづくりセンター、とちぎリハビリテーションセンター、わかくさ特別支援学校等の運営を 行っています。敷地にはウォーキングコースが設けられ、早朝から夕刻まで市民のウォー キングする姿が常に見られます。

 

○神社と例祭

 ●高麗神社 駒生町1330 (西中丸)

  例祭は、11月3日に行われています。

 

 ●湯殿山神社 駒生2-5-30 (東中丸)

  例祭は、4月第2日曜日に行われています。

 

 ●宝田神社 宝木町2-938-3 (2丁目1区) 

  例祭は、11月3日 甘酒祭り、子ども相撲、樽神輿町内一周、餅つき 

 

 ● 大杉神社 駒生町1034 (西中丸)

  例祭は、1月第2日曜日に行われています。 

 

 ● 神明宮宝木1丁目 (1の2)

  例祭は、11月3日に行われています。

 

 ●雷電神社 細谷町 (宝木細谷) 

  例祭は、4月第2日曜日に細谷町の氏子たちによって行われています。

 

○文化財:石碑・石像

 ●馬頭観音 西が岡小学校北側の路傍、西中丸公民館脇、駒生町の旧家など

 ●男体山  雷電神社境内(宝木細谷)

 ●十九夜様 上駒生公民館裏(西が岡小西側)

 ●庚申の塔 西が岡小学校北側の路傍、同小学校西側の農地